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第一章 「スイッチ」第二話

営業活動を終え、新宿の事務所に帰ってきた田中さん。トイレの流しで顔を洗っています。

タツノオトシゴのマークが入った青いハンケチでゴシゴシ顔を拭く田中さん。
鏡には冴えないメタボ中年男が写っています。
まじまじと鏡を眺め田中さん。愛嬌のある丸い顔。しかし、その額には深いしわが横にざっくり入っています。厚ぼったい眼はくぼみがちで、唇はカサカサです。

鏡に写る自分に向かって「ふ~」と大きく息を吐く田中さん。

「サラリーマンの給料はガマン料なのよ」

昔の彼女から言われた言葉が、頭をリフレインします。
このご時世、訪ねてきた営業マンから500万円の会員券を買う人はそういません。トップセールスマンでさえ、クツ底をすり減らし月に一件の成約がやっと。
田中さんの最後のお客は三ヶ月前。4月に入って早二週間。田中さんにはまだ、見込み客すらいませんでした。

「営業マンの仕事は何だ、田中。言ってみろ」

「数字を・・・あげる事です」

「聞こえねえよ。もう一度言って見ろ」

「数字をあげる事です」

「じゃあなんだ、お前は会社に遊びに来てるのか?」

「・・・すみません」

「詫びはいらねえから数字出せ」

「・・・」

「お前は明日も出勤だ」

「はい」

「見込み出るまで事務所帰ってこなくていいからな、明日は」

「・・・はい」

「そのままそこで一時間立ってろ」

「・・・はい」

PC画面へと眼を向ける山田課長。立ち尽くす田中さん。時刻は十時を少し回った所です。社内で通称、「かかし」と呼ばれるこの戒めは、山田課長が好んで使う手でした。
鳴り響く電話の音。忙しそうに働く社員達。まるでそこに立ち尽くす人間が存在していないかのごとく振る舞う周囲。それでもそこに立ち続けなければいけないその屈辱感。「かかし」になったことのある者にしかわからないでしょう。まじめで責任感が強い日本人を精神的に追い込むのに最良なのは、仕事を与えずに生き恥をさらすことなのです。

「おつかれさまでした~」

最後の社員が事務所を出てから15分後の11時5分過ぎ、田中さんも事務所を後にしました。朝から晩まで様々なことにガマンする生活を20年間続けてきた田中さん。まさか自分の身の上にそれが起ころうとは、まだ夢にもおもっていなかったのです。

更新:2009年4月19日 03:31 PM

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